M  Y  S  T  E  R  Y    L  E  A  G  U  E


期お待たせしました!
本格落語ミステリーの真打ち登場!


愛川 晶

神田紅梅亭寄席物帳 道具屋殺人事件』

四六判上製本
312頁
1890
円(税込)

高座の最中に血染めのナイフがあらわれる、
後輩は殺人の疑いをかけられる、
妻の知り合いは詐欺容疑……。
次から次へと起こる騒動に、
二つ目、寿笑亭福の助が巻き込まれながらも大活躍!
落語を演じて謎を解く、一挙両得の本格落語ミステリー!


本文から少しだけ


  2

「……その先を見ますってえと、こう、細長い板が括りつけてある。つまり、板が何枚も海の上にプカプカ浮いているわけですな。これがこの地方の便所でして、用を足したくなるってえと、縄を引っ張って板をたぐり寄せ、その上に用を済まして、足でポーンとまた海の中へ蹴り込む。そうすれば、波がこの板をきれいに洗ってくれるというわけで、まあ、自然浄化方式の水洗トイレとでも申しましょうか。今流行りの『環境に優しいシステム』でございますな」
 どっと大きな笑いが弾けた。客は沸いているのだが、お席亭の眉間のしわはますます深くなるばかり。そのギャップの激しさに、亮子は戸惑っていた。
「で、この地方では、便所へ行って用を足すことを『勘定をする』『勘定をぶつ』などと申しておりました。なぜかというと、まあ、しゃがんだ姿勢で、板が波間を行ったり来たりするのを数えたのが語原らしいのですが……で、用を足す場所を『勘定場』、便器となる板のことを『勘定板』と呼んでいたんだそうでございます。
 ある時、この地方の漁師さんが二人、江戸へ見物に出てまいりまして……」
「……いつも、こればっかりなんだよ」
 ため息混じりに、お席亭が言った。
「まったく、困ったもんなんだ。叱ってやっとくれよ」
「えっ? あの、はる……いや、亀吉さんが高座にかけるのが、『勘定板』だけだとおっしゃるのですか」
 この噺の名前は『勘定板』。決して放送の電波に乗ることはないが、寄席では比較的よく出る演目だ。
「それは、おかしいですね。馬春師匠のところにいた時分に、前座噺は一通り教わって、十席近く持ちネタがあったはずなんですけど……忘れちゃったのかしら」
「いや、そうじゃないんだよ。そりゃ、喋ろうと思えば、喋れるだろうさ」
 お席亭はいかにも渋そうに、お茶を一口すすり、
「山桜亭がまだ元気で、うちでトリを取った時に、この子の噺は何度か聞いたよ。『金明竹』に『子ほめ』『牛ほめ』『道具屋』……。確かに下手ではあったけど、一生懸命やってるのがよくわかったから、あたしは先に見込みがあると思ってたんだ。
 ところが、亀蔵さんのところへ移ってから、がらりと変わっちまった。師匠への義理でたまに使ってやれば、十日間ずっと、下ネタばかり。お客様は呑気に笑ってくださってるけど、最初にそういう噺が出ちまうと、あとで高座に上がる者がやりづらいんだよ」
「……ああ、なるほど。それは、そうかもしれませんねえ」
 一般に『下ネタ』といえば、卑猥な内容も含まれるが、落語の世界では、そういった噺は『バレ』と呼んで区別する。したがって、もっぱらウンコとオシッコの落語ということになり、『勘定板』はいわばその横綱だ。
 楽屋での二人の話など耳に入るはずもなく、亀吉の高座は進んでいく。
 田舎から江戸見物にやってきた二人の漁師。宿に泊まろうとして、部屋に案内されたが、そのうちの一人が便意を催したため、案内の女中に『勘定をぶちたいが、どうしたらいいか』と尋ねる。それを聞いた女中は驚き、自分が何か粗相をしたため、勘定を払ってすぐに帰るという意味かと勘違いし、すぐさま番頭に報告する。
 事態収拾のため、番頭が急いで部屋へ駆けつけてくるのだが、
「『……いやあ、まことに申し訳ねえけんども、おらぁ、ちょっくら勘定ぶちてえもんだから、何とかしてくんろ』
『お勘定を? はあ、それはまことにありがたいことではございますが、これは手前どもの慣わしでしてな、勘定の方は全部固めていただきまして、ご出立の折に、まとめて勘定していただくことになっております』
『ええっ!? あ、あんだって……。じゃあ、何か、おらたちがここに十日いたら、十日分まとめて勘定しろと、こう言うかね。そ、そりゃ、いかねえ! そんなことしたら、おっ死んじまうかもしれねえ。どうか、助けると思って、今すぐ、勘定させてくんなせえ』
『今すぐ……とおっしゃいますと、本日の分のご勘定をなさりたいわけですな』
『そうそう。その通りだよ。一日に一回、勘定がしてえだ』
『ははあ。そりゃまた、大層お堅いことで……』
『いや、硬えか軟らけえかなんて、勘定ぶってみねえことにはわからねえがね』」
 いくら会話を続けても、『勘定』が『支払い』と思い込んでいる番頭と漁師との間の認識の溝は埋まらない。客席は笑いの渦だ。誰が演っても笑いを呼ぶ噺ではあるが、それにしても、よくウケている。
「五月の上席、今日で四日め。初日から三日めまで『こい瓶』が続いたから、昨日、嫌みを言ったんだよ。『いくら名前がカメだからって、毎日同し噺じゃ飽きちまうね』って。そうしたら、今日がこれなんだもの。がっかりしちまったよ」
『こい瓶』も、その系統の落語の代表的な演目の一つだ。
「そりゃ、まあ、二つの噺とも、出来は決して悪くないんだよ。お客様にもよくウケているから、席亭という立場上、強くたしなめるわけにもいかない。だけどねえ、あたしが言いたいのはさ、せっかく芽が出てきたんだから、たまには少し損な噺も高座にかけて、腕を磨いたらどうなんだと、そこんところさ」
 これもこの世界でよく使われる言い回しだ。『得な』とは口演が楽なわりによくウケる噺、『損な』はその逆で、骨が折れるが、お客にはあまりウケない噺のことを指す。誰でも得な噺が好きに決まっているが、そればかり演っていると、噺家としての技量が向上しない。そのあたりが難しいところだ。
「こっちはこれでも、末が楽しみだと思って、目をかけてやってるつもりなんだけどね」
「おっしゃる通りだと思います。だったら……お席亭から亀蔵師匠に話していただいたらいかがでしょう。師匠からの注意なら、一番効きめがあるはずですから」
「いや、それがそうもいかないのさ。実はねえ、亀蔵さんにはもう話をしてみたんだよ」
「あ、そうだったんですか。それで?」
「『暖簾に腕押し』ってやつだね。『ごもっともではございますが、若いうちには、どんな手を使ってもかまわないからお客を笑わせろと、常々そう弟子に申しておりましたもので』だってさ。ほら、あの人も途中で協会を変わったりしただろう」 「ああ、その話は聞いています」
 現在、東京の寄席は東京落語協会と伝統落語協会の二つの協会のメンバーが交替で出演しているが、十年ほど前、万年亭亀蔵は突然後者を飛び出し、一年間のフリー期間を経て、前者に加入するという業界内の事件を起こしていた。
「周りに何だかんだ言われながら、苦労してきたから、お客様に蹴られる怖さを誰よりもよく知っているんだろうねえ。師匠の方針だと言われちまえば、部外者のあたしには、それ以上口が出せないだろう」
「……確かに、そうですね」
 一門が分散してしまったあとも、亀吉は兄弟子である福の助を慕い、二、三カ月に一度は自宅へ顔を見せる。馬春師匠が元気だった頃にはもっと交際が親密で、頻繁に顔を合わせる機会があり、亮子は亀吉のことを、まるで弟のように感じていた。
(紅梅のお席亭でさえ部外者だとしたら、私の出る幕なんてあるわけがないけど……でも、このあと、どこかでご飯でも食べながら、少し話をしてみようかしら。馬春師匠やおかみさんから、事あるごとに『はる平のことが一番心配だから、何かあったら、よろしく頼む』って、言われていることだし)
 亀吉の高座はクライマックスを迎えようとしていた。
 漁師たちの言葉をすっかり誤解してしまった宿の番頭は、『勘定場はどこだ』という問いに対して、『帳場が込み合っておりますから、できれば、ここでお願いします』と答える。
『畳の上で勘定していいかね』
『ええええ、どうぞご存分にお願いします』。 そんなトンチンカンな会話のあとで、
「『じゃあ、わかった。ここで勘定ぶつけんども、勘定板がねえことには、勘定できねえ。勘定板を持ってきてくんろ』
『はい? か、勘定板と申しますと……ははあ、なるほど。承知をいたしました。少々お待ちを』
 何事か呑み込みまして、番頭さんは下へ下りていく。しばらくして戻ってまいります時、手に携えてきたのが何と算盤。
『勘定をする時に使う板』だから、これしかないだろうと思ったんですな。当時の算盤は今とは違いまして、下が一枚の板になっておりました。それを表を向けて出しては失礼だろうってんで、伏せて差し出します。
『……おっそろしく小せえ勘定板だなあ。これで、大丈夫かね』
『いえいえ。うちではどんな大きな勘定でも、これでしております』
『そ、そうかね。ははあ。で、勘定が済んだら、どうすればいいかね』
『へい。ポンと手を叩いていただければ、頂戴に上がります』
『そんなものを頂戴して、どうなさるだ?』
『帳場で大切にお預かりをいたします』
『帳場で預かるぅ? こりゃあ、驚れえたねえ』」
 客席は爆笑の連続だ。亀吉はここぞと声を張り上げ、
「いやあ、知らないってことは恐ろしい。その漁師さん、さすがに床の間の前あたりでするのは気がとがめたものと見えまして、廊下へ出てまいります。さあ、思いっきり勘定をぶとうというので、算盤を下に置き、その上に跨がった途端、着物の裾が算盤に引っかかり、球が転がって、ツーッと前へ……。
『あははは。さすがは江戸の勘定板だぁ。ちゃんと車仕掛けになっとる!』」