M  Y  S  T  E  R  Y    L  E  A  G  U  E


誰に彼を殺す機会があったのか?
錯綜する証言に、やがて浮かび上がったある真相とは……。
巧妙なミスディレクションと
伏線に彩られたアリバイ崩しものの逸品。
黄金時代を支えた名匠の代表作!

ヘンリー・ウェイド 武藤崇恵訳

『議会に死体』

四六判上製本
310頁
2520
円(税込)

「あなたはただのお飾りなんです」
議会で厳しい口調で不正を追及した議員が、
その直後、ひとり残った議場で刺殺された。
殺害時間と見られる十数分の間に市庁舎を出入りした人間は限られている。
ひとりひとりの証言を元に確実に条件を絞り込んでゆくかに見えたのだが……。
堅実で巧みなストーリーテリングとともにシニカルな味わいも深い、
名匠の代表作!


本文から少しだけ


「死んだ?」「どうして?」「どこで?」「事故でも?」 コトルが立て続けに質問した。
「いえ、そうじゃなくて、誰かに――殺されたんです!」その苦痛に満ちた声を聞いて、レースは惨事が起こったことを悟った。
「ひどい怪我で――血が――ああ、助けて!」
 トラント夫人は両手で顔を覆い、激しく泣き始めた。コトルが夫人の肩を抱き、「さあ、落ち着いて」と声をかけながら、困り切った顔でサー・ジョンを見た。サー・ジョンは手を呼び鈴に伸ばしたまま暖炉脇に立っていたが、夫人に向けた顔は真っ青で悲しげだった。そのとき喫煙室のドアが開き、夫人の泣き声を聞きつけた面々が飛びだしてきた。レース警察本部長ははっと我に返った。
「皆さんはここから動かないでください」と叫ぶ。「サー・ジョンは別ですが。どなたか医者と警察に電話していただけませんか? ヴォーリー警視とその部下を呼んでください」
 そう指示して振り返ると、夫人はすでに入ってきたドアから出ていったあとだった。サー・ジョンも最初の驚きから立ち直ったようで、いったん参事会員用ドアに向かいかけ、すぐに思い直して夫人のあとを追った。レースとコトルが慌ててそのあとを追うと、議場に入る夫人の姿が見えた。
 大きな議場は一見誰もいないように見えた。いかにも古めかしい黒ずんだ羽目板張りの壁と無人のベンチが陰鬱な雰囲気で、天井の巨大なシャンデリアが目映いばかりに明るいことも、その雰囲気をやわらげるどころか、一層その感を強めているだけだった。議員席に立っていたレースにも、壇上の参事会員席の一番端に、黒っぽい人影が机に俯しているのがぼんやりと見えた。
 サー・ジョンはトラント夫人に追いつき、夫の死体にふたたび近づこうとしているのを引き止めていた。
「いけません、これ以上は近づかない方が」サー・ジョンは必死で説得していた。「お辛いだけですよ。ここは我々に任せてください。フランク、手を貸してくれ」
 夫人はサー・ジョンの手を振りほどいた。目が狂気じみている。そのまままっすぐ壇上に駆け寄ったが、警察本部長の険しい声に足を止めた。
「近寄らないでください。市長以外の方はここから出ていってください。コトルさん、トラント夫人をお願いします。奥さん、申し訳ありませんが、これはもう警察の仕事です――死体には手を触れないでください」
 レースにしてもこのような状況に直面するのは初めての経験で、思わず探偵小説のような台詞を口にしていた。いきなりの非常事態で、それ以外に参考にするべきものを思いつかなかったのだ。レースの言葉は無礼だったかもしれないが、効果は覿面だった。トラント夫人は足を止めてからもしばらくためらっていたが、諦めた様子でくるりと振り返った。その目から狂気じみた光は消え、哀しげに曇っていた。
「きみの家にお連れしてくれないか、フランク」サー・ジョンが言った。「わたしたちより、きみの奥さんにお願いするのが一番いいだろう」
 老参事会員は父親のように気遣いながら、夫人に腕をまわしてしっかりと支え、ゆっくりとした足取りで出ていった。二人が出ていくのを見守ってから、レースとサー・ジョンは壇上のぴくりとも動かない人影を振り返った。
 ちょうどそのときロビーを走ってくる足音が聞こえ、バタンとドアが開いた。制服を着た警視と巡査二人が入ってきて、敬礼をした。
「ああ、ヴォーリーくん」レースが声をかけた。「巡査二人はロビーで、人が近づかないよう見張っていてもらいたい。ぼくたちはまだ死体を見てもいないんだ」
 そのときになってようやく、夫が死んでいるというトラント夫人の言葉を確認していないことに気づき、レースは慌てて壇上に上がって俯している人物に近づいた。数え切れないほどの死を目にしてきたレースは、ひと目見ただけでわかった。死体はまだ椅子に座っていたが、上半身は机の上に投げだした格好だった。顔は横向きで、片方の頬を吸い取り紙の上に載せている。驚愕のあまり大きく見開いた目はじっと机を睨みつけていた。首の右側からナイフの柄が突きだしているのが見える。首と襟元は血だらけで、俯している机と書類の上にはさらに大量の血が広がっていた。椅子に腰かけた状態なのに膝は中途半端に伸びていて、右足は椅子の外に投げだしてあった。左腕は机の上に置き、右腕はだらりと垂れさがっている。
「死んでいるな」レースが小声で呟いた。
 ヴォーリーも頷いた。 「ええ、おだぶつですな」