M  Y  S  T  E  R  Y    L  E  A  G  U  E


魑魅魍魎はびこる異界、大学研究室――
変態する助教授、擬態する講師、形態に怯える学長……。
研究に研究を重ねてみずからが研究対象となった
「死人と狂人たち」を本格的に描き出した問題作、あるいは笑説!

鳥飼否宇

『本格的 死人と狂人たち』

四六判上製本
288頁
1890
円(税込)

数学科助教授は、異常な興奮状態に陥ると天才科学者に変態し、
これまで数々の論文をものしてきたという。
その彼がフィールドワークと称する「覗き」、
その最中に殺人事件が発生し、あろうことか自分が容疑者にされてしまう。
疑惑を払拭するために興奮状態になった彼が指摘した「真相」とは。
研究しているのかされているのか、
微妙な線上に繰り広げられるへそまがり理系ミステリー!


本文から少しだけ

 六月二十七日金曜日の午後七時過ぎ、増田米尊は不快指数の高い宵闇の中を早足で歩いていた。ちょうどサラリーマンの帰宅ラッシュであるらしく、背広姿の男たちがマイホーム目指してせかせかと歩を運んでいく。この時間に家へ直行する男たちは、@会社においては閑職においやられたおかげで幸か不幸か残業などなく、帰ったところで古女房と顔を突き合わせるだけなので楽しくもなんともないのだが、かといって一緒に酒を酌み交わす友も少なく、ましてやひとりでなじみのバーへ行くほどの気概もなく、しかたなしに帰巣本能にしたがっているうだつのあがらぬ中年男、Aホヤホヤの新婚ないしは初めての愛の結晶が産まれたばかりで、若妻からはいずれ子育ての苦労を楯に料理の手を抜かれたり夜の夫婦生活を拒まれたりすることも、赤ん坊からはやがて汚いおやじとののしられあからさまにうざったがられることも、現時点では夢にも思わずに家路を急いでいる気の毒な若い夫、B会社にも社会にも帰属意識が希薄で必要最小限の関わりしかもたず、一刻も早くTVゲームのヴァーチャル空間に戻って今夜こそはお姫様を助け出すヒーローになりたいと、コンビニで買った弁当を片手に夢想しているオタク系独身男、のいずれかであろうと増田は考えた。直後、もしかしたら自分もこのうちの@のパターンだと見られているのではないか、と思い至って愕然とする。(違うんだ。おれはそんな寂しい中年男ではない。れっきとした学者なのだ)と誰彼なしに説明をしたい気になるのだった。
 増田が心の内で自己弁護するように、彼は綾鹿市にキャンパスを置く綾鹿科学大学の大学院数理学研究科の助教授なのであった。肩書きから推し量る限り、石頭の堅物のように思われがちであったが、じかに接してみると、意外と柔軟な思考のできる人物だということがわかる。増田は世の中のあらゆる事象を数学的に解き明かしたいという野望を持っていた。自然界のさまざまな現象も、人間社会で起こるいろいろなできごとも数値化し統計処理することで、把握しやすくなり、本質が見えてくる。彼がことに興味を抱いているのが、人間の本能的な行動の理論的解析であった。いままでに物してきた論文は、a「若者の暴走行為の数理モデルにおける考察」、b「ゲーム理論を応用した暴力団の抗争地図の変化予測」、c「異性間の恋愛形成のメカニズム――統計力学的アプローチ」など。いずれも数学の手法を社会現象の解明に応用する数理社会学の領域で一定以上の評価を得て、現在の彼の地位があるのだった。
 増田の信念は科学者たるものフィールドワークを最優先すべしというものであった。このあたりの考え方も、理論重視の数学者の中にあっては異彩を放っていた。増田がこのような信念を掲げるようになった背景には、彼の特異な体質が関係していた。彼は興奮状態になればなるほど頭脳が明晰に澄み渡る、珍しい体質の持ち主だったのである。普段は生気に欠けるくたびれた中年男にしか見えないのだが、ひとたび頭に血が昇るやいなや、猛烈な勢いで頭脳が回転するのだ。これまでの論文も、a暴走族とともに一般道路を時速百五十キロのスピードでぶっ飛ばす陶酔感に包まれながら、b単身乗りこんだ暴力団事務所で鼻先に鈍い光を放つドスを突きつけられて極度の恐怖に苛まれながら、あるいはc深夜の公園の植え込みの陰に隠れて近くのベンチで繰り広げられる男女の痴態を観察しながら、興奮状態の中で理論化してきたのだ。
 こんな増田の方法論は、研究者の間では変態的フィールドワークと呼ばれていた。変態的とは言いえて妙な表現であろう。というのも、増田の身体を張った体当たりの行動はいかにもアブノーマル(変態的)であったし、同時に彼が興奮状態を契機にしがない中年男から溌剌とした研究者に様変わりする過程が、まるで蛹が蝶に変わるが如くメタモルフィック(変態的)であったからだ。
 今しも増田は変態的フィールドワークに出かける最中であった。帰宅するサラリーマンに同化するように、もうすっかり暗くなった住宅地を歩いていく。つくしが丘駅から正確に五分、歩数にして四百六十二歩を数えたところで、目の前に十二階建ての立派なマンションが見えてきた。グランドメゾン綾鹿という新しいマンションである。威風堂々たるたたずまいは、新興住宅地のつくしが丘でもひときわ目を引き、付近の同規格の建売住宅を睥睨しているかのようだった。このマンションの九階の一室には綾鹿科学大学の学長である清水幸雄が入居していた。清水学長とは反りの合わない増田は、マンションに向かってあっかんべーをすると、隣接するアパートに入っていった。