M  Y  S  T  E  R  Y    L  E  A  G  U  E


鮎川賞受賞作『未明の悪夢』から7年
奇想の達人が紡ぎ出した
新たなる悪夢!

谺健二

『星の牢獄』

四六判上製本
469頁
2100
円(税込)

海上の私設天文台に集った人々に相次ぐ死。
焼死の密室、赤い墜死、大時計の磔刑……。
そして事件の解明を引き受けたイレムとは。
やがて「事実」は明らかになる。
そしてすべての「真実」が反転してゆく。


本文から少しだけ

 他人に起きた悲惨な出来事が、明日――いや次の瞬間、自分にも起こり得ると考えて不安になる人は、さして多くないかもしれない。それが悲惨であればあるほどレア・ケースに思え、自分とは無関係な他人事へと化していく。
 たとえば一人の女子高生が下校途中、何者かに襲われ暴行、殺害される。そんな忌まわしい事件は一年にそう何回も起きないが、決してなくなるわけでもない。そうであっても、茅春にとって、似た出来事が自分の身内に降りかかってくる確率は、無限に低かったはずだ。その日、外出先から自宅に帰ってきて、一つ年下の妹が服のままベッドに横たわり、息絶えている姿を発見するまでは。
 妹の着衣が乱れ、首の周りに紫色の圧迫痕と、シーツに失禁の染みがあるのを目にした時、茅春は自分の心臓の鼓動が爆発寸前まで早まるのを感じ、目の前が暗くなった。しばらくそれが続いてから、視界を取り戻した茅春は、声をかけて、妹の冷たい体を何度も揺すぶった。そして、もう悲惨な出来事は、うまく自分達だけを素通りしていくなどとは思わないようにしようと、心のどこかで変に冷静に考えていた。
 だが、そのある種の反省は、どう控え目に見ても遅きに失していた。妹が、すでに自分の手の届かないところへ逝ってしまったことを悟り、茅春は長い間ベッドの脇に座り込んで放心していた。それから立ち上がって、自分の携帯で警察へ連絡しながら、家を出る前のことをぼんやりと思い返した。
 他愛ない、姉妹喧嘩だった。妹がファンだったある若い男性タレントを巡って意見が対立し、茅春は、どこが魅力的なのか気が知れないとなじった。最初は軽い言い合いだったのが次第にエスカレートし、ついに茅春は妹に向かって「死んじゃえ」と言って、家を出た。
 それから男友達と休日のデートを楽しんで帰宅する直前まで、妹にひどい言葉を投げつけたことなどすっかり忘れていた。そんなのは喧嘩の勢いで、本気じゃないと妹もわかっていたはずだ。ところが、その数時間後、茅春の言葉は現実になった。
 茅春の家は、駅から歩いて二十分程の距離にある。駅の構内から出てすぐに、茅春の携帯が着信した。出てみると、妹からだった。
「お姉ちゃん、助けて。知らない男が……」
 切迫した声でそれだけ言って、電話は切れた。茅春は驚いたが、家を出る前の喧嘩を思い出し、妹が、たちの悪い悪戯をしてきたのかもしれないと思った。姉を不安に陥れて、後で笑うのが目的の小さな復讐なのかも。
 しかし家路を辿っているうち、不安は急速に膨張した。最後は駆け足になって自宅に着いたが、結局、電話を受けてから十五分以上が過ぎていた。
 震える声を抑えながら警察に通報する茅春の脳裏を、自分があんな暴言を浴びせたから、妹は死んだに違いないという奇妙な考えがよぎった。無論、そんな理屈はあり得ないはずだが、そう自分を説得するだけの理性が、茅春の中から失われていた。
 妹の死は、あたしのせい。
 あたしが呼び寄せたものだ。
 しかも、助けを求める電話を受けていながら、悪戯だと思って無視した。あの時すぐ警察に連絡していれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
 不条理な強迫観念は、茅春の心の中一杯に広がり、やがて擦っても消えない痣のように固着した。
 電話を切って初めて、床に座り込んだ両足が細かく震え続けていることに気付いた。顔を上げると、開いたままの妹の目が、じっと自分を見つめていた。

          ★

 小さな児童公園の片隅のベンチに腰を降ろして、周蔵は木々の枝越しに眩しく光る夏空を見上げた。
 少し目の中に痛みを覚えて顔を戻すと、正面の砂場で幼い男の子が一人、シャベルで無心に砂を掘り返していた。ベビーカーを停めた若い母親が、そばで男の子を見守っている。どこからか小鳥の声が聞こえ、世界は静寂と安寧に包まれていた。
 そうしていると、この世にはどんな残酷な出来事も、悲惨な事件もないかのように感じられた。周蔵の年老いた妻が一カ月ほど前、電車に轢かれてその生涯を終えたことも含めて。
 突然の妻の死は、七十歳を過ぎた周蔵の裡に大きな穴を空けた。その死が、自ら踏切の遮断機を潜り抜けて、列車に飛び込んだ自殺であったから尚更だ。
 当初、妻の死の動機が、周蔵には理解できなかった。だがやがて、妻がある悪徳業者に騙されて法外な値段の買い物をさせられ、多額の借金を抱えていたことがわかった。悪徳業者は、恐喝に近いやり方で代金を取り立てようとしたらしい。妻が県の生活相談センターに自分の窮状を訴えたため、金銭問題は一応の解決をみようとしていた。だから、それが自殺の理由とは思えない。にも拘らず、妻は現実に電車に飛び込んだ。
 心に穿たれた穴が、日々の雑事で埋まり始める頃になって、周蔵は一つの疑惑を覚えるようになった。妻の死の本当の動機は、悪徳業者に騙されたことよりも、その事実を夫に知られて叱責されることの方にあったのではないか。あるいは、そんな失敗をしでかした自分への羞恥だったのかもしれない。
 確かに妻が生きていた頃の周蔵は、何事に対しても寛容な性格とはいえなかった。もし妻が馬鹿な買い物をして、多額の借金を抱えていたことを知れば、怒りに駆られて厳しい態度をとっていただろうと、自分でも思う。だからといって、それを苦にして死ぬほどのことはない――というのは、今にして考えれば、夫の側の勝手な理屈だったのだ。おそらく妻にとって悪徳業者の件は、それまでに夫との間に蓄積していたものが、限界を超えて破裂するきっかけの役目を果たしたにすぎなかったのだろう。
 要するに、自分は信頼されてなかったのだ――周蔵は、そう考えざるを得なかった。だからこそ妻は夫を見限って何も打ち明けず、自ら死を選んだ。四十年以上、毎日のように一緒にいながら、互いの心は何千光年も隔たっていたに違いない。
 なぜ、そんなことになってしまったのか。当事者の一方が死んでしまい、答えは永遠に解けない謎として残った。周蔵は自分と、妻の死のきっかけを作った悪徳業者への、強い憤りに苛まれる日々を送るようになった。
 周蔵は手を尽くして、その業者を探し出した。上条忠志という五十過ぎの男が経営するリフォーム会社が大阪にあって、周蔵の妻以外にも多くの人々に、実際は役に立たない耐震器具を高値で売りつけていた。被害者は高齢者が多く、泣き寝入りしているケースが大半を占めていたが、上条のやり方は違法すれすれのため、未だ摘発には至っていない。
 上条の周辺を探っているうち、周蔵は恭子という一人娘の存在を知った。まだ高校生だった。
 砂場で遊んでいた男の子が、母親に手を引かれて公園を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、ふと周蔵は、上条が今、自分の娘を不意に亡くせばどういう気分になるだろうと考えた。周蔵が妻を失ったように、愛するものをある日突然喪失すれば、少しは己の行ないが他人にもたらしているものの意味がわかるのだろうか……。
 見上げると、ベンチの上まで伸びている梢越しに、夏空を流れる白い雲が覗いていた。しばらくその動きを追ってから、再び視線を降ろした周蔵は、誰もいなくなったはずの砂場の中に立っている一人の少年に気付いて、軽く目を瞠った。
 小柄で真っ黒い髪をしたその少年は、高校生だろうか。あるいは中学生かもしれない。どこかの学校の制服らしい濃紺のブレザーを着て、両手を体の後ろに回し、足を揃えて直立していた。周蔵は、まるで少年が砂の中から湧いて出てきたような錯覚を覚えた。
 少年の佇まいには、戸惑っている周蔵と対照的に、どこか余裕が漂っていた。幼さの残る、色白で小さな顔を少し伏せていた少年は、周蔵と目が合うと、口の片側を持ち上げて淡い笑みを浮かべた。
 賑やかに囀っていた小鳥の声が、夏空に溶けていく雲のように、いつの間にかすっかり消え去っている。