M  Y  S  T  E  R  Y    L  E  A  G  U  E


過酷な女子マラソンの世界。
一人のランナーが挫折して命を絶った。
それから七年。
死んだ彼女のためにしてやれることは、
もうこれしかない――

歌野晶午

『ジェシカが駆け抜けた七年間について』

四六判上製本
304頁
1680
円(税込)

カントクに選手生命を台無しにされたと、
失意のうちに自殺したマラソンランナー、アユミ。
ジェシカはそれを自分のことのように胸を痛め、
そしてカントクを憎んだ。
それから七年がたった。
いま、ジェシカの目の前にはカントクの後ろ姿。
手を砲丸に添える。
目を閉じるとアユミの面影が浮かび上がる。

死んだ彼女のためにしてやれることといえば、
もうこれしかないのだ。


本文から少しだけ

「あなたは私の言うことを何でもききます。あなたには憎むべき人がいます。殺したいほど憎らしい男です。私が合図を送ると、あなたはそいつを殺します。『悪魔』『裁き』『地獄』、合図の言葉は三つです。『悪魔』『裁き』『地獄』、いいですか? 『悪魔』『裁き』『地獄』と三つ続けて聞いたら、あなたはツトム・カナザワを殺します」
「カントク!?」
 ジェシカは驚き、目を開けた。
「だめじゃない!」
 アユミは甲高い声をあげ、
「あーあ、失敗だ」
 肩を落とし、大きな溜め息をついた。
「呪いって、殺すって、カントクを?」
 ジェシカはバネ仕掛けの人形のように立ちあがった。アユミはまた溜め息をついて、
「そうよ。あんたに後催眠をかけて殺してもらおうと思ったんだけど、まあいいわ、どうせ素人が見よう見まねでやったところで、かかるかどうか疑わしいのだし。本当に腕や脚が重くなった?」
「え? ええ、まあ、なった感じだったけど」
「熱くなった?」
「熱かったような」
「両腕がくっついたのは? ふりをしてくれただけなんでしょう?」
「勝手に動いた……、ようだったけど」
「そんなもんよね」
 アユミは首をすくめた。
「ね、ねえ、アユミ、呪いって、カントクを?」
 ジェシカはあらためて尋ねた。
「そうよ」
 アユミはしれっと答えると、椅子を自分の方に引き寄せて腰を降ろした。
「あなたはカントクを恨んでいるの?」
「そうだって」
「殺したいほど?」
「ええ、殺してやりたい」
 アユミは憎々しげに顔をゆがめ、膝の上で拳を握りしめた。
「どうして?」
「どうして?」
 アユミは逆に疑問を投げかけ、何かにあきれるように目をしばたたかせた。
「だって、二人の間にトラブルなんてないじゃない。言い合っているのも見たことない。ううん、それどころか、仲よく話していることが多いじゃないの。楽しそうに、日本語で」
「仲がいい?」
 アユミは首を突き出し、そして声を立てて笑い出した。
「もはや言い合う気もないってこと」
 ジェシカは困惑し、自分に問いかけるようにつぶやいた。
「いったい何を恨んでいるというの」
 するとアユミは笑いをおさめ、両手を広げて、
「どうしてかつてボストンやパリで走った人間が、ダイエットに挑戦中の二百五十ポンドのおばさんのようにちんたら走らなければならないのよ」
「カントクが作った練習メニューが気にくわないの? そりゃ、めいっぱい走りたいという気持ちはわかるけど、少しずつ戻していかないと――」
「そういうことじゃないわよ。私がまともに走れなくなったのは誰のせいよ」
 いらだつように、アユミは腿の上に繰り返し拳を落とす。
「カントクのせいで体を壊したと?」
「そうよ。アユミ・ハラダはツトム・カナザワに潰された」
 アユミはジェシカを見据える。まるで憎悪の対象が目の前の彼女であるかのように、瞬きもせず睨みつける。その刺すような視線からジェシカはようやく逃れて、
「体調を崩したのは事実だし、その原因としてここでの走りが関係していないということはありえないと思う。でも、恨まなきゃならないほど無茶な指導をされたの? いつ?」
 しきりに首をかしげながら尋ねた。ジェシカには、アユミがしごかれているのを見た記憶がない。
「指導? そうだわ、あれは指導よ。最悪の指導。史上最低の指導。あんな指導者を野放しにしておいたら、今度は誰が被害に遭うかわかったもんじゃない。あんたも気をつけな」
 ジェシカはますます困惑する。
 ツトム・カナザワの指導法はきわめて理性的だ。感情にまかせて怒鳴ったり、理不尽に暴力をふるうことはない。ただ命ずるだけでなく、どうしてそのように走らなければならないのか、データや事例を用いて説明する。選手一人一人を自立した大人として扱い、プライベートには口を差し挟まない。
 最低? 違う、最高の指導者だ。実際、どのランナーもNMACに来て成績が伸びている。
「あんたさ、あの男がどうしてこの国で陸上のコーチをしているのか、変に思ったことはないの?」
 アユミは眉間に皺を寄せ、唇をゆがめる。演技ではないかと思うほど嫌悪感に満ちた表情だった。
「日本では活動できないからよ。非人道的な指導を行なったため、日本の陸上界から追放された」
「嘘よ、嘘。どこでそんなでたらめを仕入れてきたの? 誰に吹き込まれたの?」
 ツトム・カナザワは人当たりもやわらかい。みな彼のことをカントクカントクと慕っているではないか。
「何もわかってないくせに」
 ジェシカは脇腹を小突かれた。
「何も話してくれなければ何もわかりようがない」
 思わずカッとして、強い調子で言い返した。
 アユミが椅子を蹴って立ちあがった。
「わからせてあげる。ついてらっしゃい」
 彼女はそして部屋を出ていく。ジェシカは椅子を立ててからあとを追う。
 アユミは自分の部屋に入った。ジェシカも続いた。
「えっ!?」
 思わず驚きの声が口をついて出た。一瞬、部屋を間違ったのかと思った。
 アユミの部屋はジェシカの部屋とは対照的に華やかさに満ちあふれていた。ワードローブがあり、姿見があり、大型のテレビがあり、ステレオがあり、パソコンがあり、本棚には日本のマンガ本がずらりと並び、その上のガラスケースの中にはフランス人形やテディベアが飾られ、香水の瓶があり、壁にはヨーロッパ調の絵がかけられ、天井は映画俳優のポスターで埋めつくされていたのだ。二週間ほど前に訪ねた時には。
 それらが跡形もなく消えていた。備えつけのベッドと机とロッカー、あとはスーツケースが二つあるきりだった。
「ということでした」
 がらんとした部屋の中央に立ち、アユミは両腕を横に開いた。
「ということって……」
「明日ここを出ていく。荷物は今日の昼間、みんなが練習している間にトラックが取りにきた」
 ジェシカは呆然と立ちつくした。
「クラブを移籍するの?」
 ハッとして尋ねた。アユミはかぶりを振った。
「もう走らない。陸上から足を洗います」
 ジェシカはいっそうの混乱に襲われた。
「ウソ……」
「ホント」
「そんなに体の具合が悪かったの?」
「体はね、いちおう元には戻ってるみたい。医者も、通常のトレーニングをしてもだいじょうぶだろうと言っている」
「じゃあどうして辞めるなんて」
「元に戻って何になるの? またB級ランナーに戻って。走れない間に私は悟ったの。私の実力はこのあたりが限界みたい、超一流になる器ではない、だったら早いとこ足を洗ったほうが人生を有意義に使える」
「限界だなんて、なに言ってるの。体調が戻ったのなら、またがんばればいい」
「どんなにがんばったところで無駄。もう歳だし」
「まだ二十八じゃないの。今はみんな三十を過ぎても競技を続けてる。結婚後も一線級で活躍しているランナーもたくさんいる。結婚して、子供ができてから強くなることもある」
「うるさいわね! だめなものはだめなの!」
 アユミは突然声を張りあげ、両手で机の天板を叩いた。ジェシカはその剣幕にたじろぎ、口を閉ざした。