M  Y  S  T  E  R  Y    L  E  A  G  U  E


朝日新人文学賞受賞第1作!
「言葉(ロゴス)で解けない謎はない」
そしてソクラテスは「弁明」を開始する。

柳 広司

『饗宴(シュンポシオン) ソクラテス最後の事件』

四六判上製本
360頁
1890円(税込)

「世界には、言葉(ロゴス)で解けない謎はない」
ソクラテスが謎を解体し、これを親友のクリトンが記録する。
ホームズ譚を思わせるような舞台に仕掛けられた
バラバラ死体、衆人環視の死、狂ってゆく女たち、敵を求める男たち、そして……。
すべてはアテナイを暗雲でおおうピュタゴラス教団の悪魔的所業なのか。
『贋作「坊っちゃん」殺人事件』で朝日新人文学賞を受賞した気鋭による意欲作。


本文から少しだけ


 ソクラテスは、私が彼をほっぽりだした、まさに同じ場所で待っていた。
 傾きかけた西日が照りつける、埃のたつ大通りのど真ん中である。
「それで、なにか面白いものはあったかい?」
 戻ってきた私に気づくと、ソクラテスは欠伸をしながらそう尋ねた。私はとっさに自分の顔が赤らむのを感じた。ソクラテスに指摘された通り、当時の私には「なにか面白いもの」を求めて、いつもきょろきょろと辺りを見回しているようなところがあった。といって、人生に「面白いこと」を求めるのは、当時のアテナイに生まれた者の義務のように思われていたから、自分では気にもしていなかったのだが、ソクラテスに改めて指摘されると、急にそれがあまり褒められた癖ではないような気がしてきたのだ。
 ソクラテスはそんな私の内心を知ってか知らずか(多分、知らなかった)大きな伸びを終えると、先に立ってすたすたと歩きだした。私はすぐにソクラテスの後を追った。
「そうそう、これを返すのを忘れていた」
 そう言ってソクラテスは、並んで歩く私に小型の黄金像を返してよこした。
 勝利を祝う女神アテナ。黄金像は、私がその日の宴席の主人アガトンへの贈り物として用意したものであった。アガトンは最近行われたレナイア祭における悲劇コンクールで優勝し、その日の宴席も彼の優勝を祝い、神に感謝するためのものだった。女神アテナを象った黄金の像はつまり、私からのささやかなお祝いの品である。
 せっかくの贈り物は、どうしたことか私が広場に行っていたわずかな間――ソクラテスに預けていた間に――すっかり汚れてしまっていた。像はびっしょりと汗をかき、埃にまみれている。私は受け取った像とソクラテスの横顔を交互に眺め、一人合点した。
 おそらく、日向に立っていたソクラテスはいつもの癖でなにか考え事に没頭し、その間中じっと像を握りしめていたのだろう。ソクラテスは、そのことには少しも気づいていないようだった。といってソクラテスの放心はいつものことなので、彼に物を預ける方が悪いのだ。私は仕方なく自分の着物の裾で像を磨き始めた。埃はしかし不思議に落ちず、よく見れば像には蜂蜜らしきものまでがべったりとついている。
 私は今度こそ、やれやれとため息をついた。ソクラテスは通りかかった蜂蜜売りから一杯おごってもらったに相違ない。その後ソクラテスは、また考え事をしているうちに、無意識の内に手についた蜂蜜をアテナ像になすりつけてしまったのだ。
「せっかくなら、日陰の、それも人通りのないところで待っていてくれればよかったのに」私はソクラテスを振り返って恨めしげに言った。
「日陰? 人通り? それはまた、どうして?」
「どうしてって」私は肩をすくめた。「ここは暑いし、なにしろ埃っぽかっただろう。……それに、美味しい蜂蜜売りも通ったようだしね」
 私はアテナ像に息を吹きかけ、これ見よがしに磨きながらそう言った。どんな鈍感な者でも気づきそうなこの皮肉に、ソクラテスはやはり少しも気づいてはくれなかった。
「ふむ、蜂蜜売りは確かに通ったがね。しかし暑い?」ソクラテスは改めて周囲を見回し「いや、たいして暑くはなかったよ、君の心配はありがたいけれど」と澄ました顔で言う。
「僕が心配しているのは」私は諦めて言った。「君の頑強なその体のことじゃない。このアテナ像のことなんだがね」
 ソクラテスは初めて気づいたように私の手の内を覗きこみ、驚いたように声を上げた。 「おや、この像はひどく汗をかいているじゃないか! いやはや、君がそんなに汗かきだとは知らなかったよ。さっき私から受け取ったばかりなのに、もうそんなに汗で汚してしまうなんて!」
 抗議しようとする私を遮り、ソクラテスは私の手から像をひょいと取り上げて言った。
「いやクリトン、君はもうこれを持たない方がいい。これは私が持って行くことにするよ。それにしても、ふむ、こんな時だけは、わたしたちギリシアの服装というのは実に不便なものだね。荷物は手で持つか、さもなければ口にほうり込む以外ないのだから。それとも、君はこのアテナ像を口にほうり込んで運ぶつもりなのかい?」
「まさか」私は力なく首を振った。アテナ像を小銭のように口にほうり込んで運ぶなど、物理的にも、また心情的にも、できるはずがない。当たり前だ。なんだか問題がずれてしまったようだったが、ソクラテスを相手にしてはこれも毎度のことであった。

(中略)

「なんだ、クリトン。私の顔になにかついているのかな?」
 急にソクラテスが振り返り、私は慌てて首を振った。ソクラテスが妙な顔をしているので、私はさっき広場で目撃した騒動の顛末をかいつまんで話してきかせることにした。
「とまあ、こういうことがあったのだがね。ソクラテス、僕は今、あのソフィストの連中が常々『人間にとって謎は存在しない』と言っていたのを思い出していたんだ。あるいは本当にゼウスのせいなのかもしれないが、なんだか納得がいかなくてね。もし君があの場所に一緒に居合わせたなら、あの騒動の隠された意味を見つけ出したんじゃないかと、そう考えていたのだよ」
「なんだ、そんな面白いことがあったのか。それじゃあもちろん雷は鳴ったのだろうね?」
「雷?」私は一瞬記憶を巡らせ、思いついて言った。「そういえば、あの時頭の上で、一度雷が轟いたような……」
 私が言い終わらないうちに、ソクラテスがくすくすと笑い出した。
「いいや、クリトン」とソクラテスは首を振って言った。「当の大神ゼウスに誓っても良いがね、さっき雷は一発だって鳴っちゃいないよ。なにしろ君が広場にいる間中、空には雲ひとつなかったんだ。ふむ、それにしても蝋板を溶かしたのが『ゼウスの怒り』とは、かの全知全能の神もずいぶんこまめに出演するようになったものじゃないか」
「そうなんだ。なにかがおかしい。でもなにがおかしいかは分からない。そうじゃないかい?」
 私はどうやらソクラテスにからかわれたことに気づき、いささか気を悪くして言った。ソクラテスは不思議そうに私の顔をのぞきこんだ。
「なにを言っているんだ、クリトン。私はソフィストではないが、それにしてもなにが起こったかはすべては明らかじゃないか」