M  Y  S  T  E  R  Y    L  E  A  G  U  E


半年前の事故で記憶を蓄積できなくなったぼく
そのぼくが書き留めたという「日記」を頼りに
殺された親友の「真実」をたどってゆく

黒田 研二

『今日を忘れた明日の僕へ』

四六判上製本
290頁
16
80円(税込)

ちょっと待ってちょ

あの嵐の夜、ぼくは事故にあったらしい。そのときに頭に損傷を受け
記憶を蓄積できないからだになってしまった。ぼくは失われてゆく記憶を少しでも補うために、
退院以来、かかさず日記をつけてきたのだ、と妻は説明してくれた。
驚いたことに、事故に遭ってから半年のあいだに、
いちばんの親友が失踪したのだとも。
しかし僕はたたまたま見ていたニュースで親友の遺体が埋められていたことを知った。
その一瞬、血まみれで死んでいる親友の姿がフラッシュ・バックしてきた。「どうして?」
……ぼくの事故と同じ日に死んだ妻の友人、親友の失踪直前に「自殺」した女子高生、
さまざまな謎に取り巻かれていくぼく。
もしかしたら、 「ぼくが殺してしまったのか?」
メフィスト賞受賞の新鋭による騙りの新境地!


本文から少しだけ


「さよなら――」
 ドアを閉める瞬間、彼女の口がなにかをいいたげに小さく動いた。しかし、僕はそれに気づかなかった振りをして、そのまま部屋の前から立ち去った。いつまでも彼女に甘えていては、これから挑む戦いに勝つことなどできないだろう。
 雨の勢いは予想以上に激しかった。傘などは持っていない。僕はコートの襟を立てると、小走りでホテルを飛び出した。
 数十メートル走ったところで、後ろを振り返る。彼女がいるはずの部屋の明かりを見上げ、もう一度だけ「さよなら」と呟くと、未練を振り切るために全力で駈け出した。
 ここへ来る途中、小さな駐在所を見かけた。ほとんど馴染みのない土地だったが、初めて訪れたというわけでもない。道に迷うことはないだろう。このまま数キロ歩けば、警察にたどり着くはずだ。
 田舎の一本道――。
 容赦なく僕を叩きつける雨の音と、時折、岩に打ち寄せる波の音以外には、聞こえてくるものなどなにもない。ホテルを離れてしまうと、鬱蒼と生い茂った木々以外にはなにも見当たらず、僕ははるか遠くに見える街の明かりだけを頼りに走り続けなければならなかった。
 濡れた身体から、急速に体温が奪われていく。体力には自信があったが、早くも息切れを感じていた。踏み出した足に、まるで力が入らない。雪の上でも歩いているように、地面が頼りなく感じられる。
 考えてみれば、夕方からなにも食べていない。
 このまま、ここで倒れてしまえば、楽になれる。
 何度もそんな誘惑に飲み込まれそうになったが、そのたびに頬を叩き、自分に喝を入れた。倒れるわけにはいかない。
 突然、目の前が明るく輝いた。まぶしさに目を覆った次の瞬間、今度は爆音が轟いた。鼓膜が破れたのではないかと疑うくらいに、派手な音だった。耳がきぃんと唸り、頭がくらくらと揺れる。
 立ち止まって周囲に目をやると、ぼんやりと光る気味の悪い物体が、はるか前方にたたずんでいた。人魂かと思って身構えたが、冷静に考え、それが僕の家のそばに立つ〈時を刻む塔〉であることに気がついた。時折、塔の周りに火花が散る。たき火の残り火が爆ぜるような音も聞こえた。
 暗黒の空に稲妻が光り、再び爆音が轟いた。どうやら、塔に雷が落ちたらしい。ゆっくりとではあるが、雷はこちらに近づいているようだ。ぼやぼやしてはいられない。僕は足を速めた。
 しばらく走り続けると、今度は暗闇の中に人影を見つけ、ぎょっとした。人影はまっすぐこちらに向かって歩いてくる。腕時計を見ると、午前三時を数分回ったところだ。こんな時刻に、こんな場所を歩いている人間が、僕以外にも存在するとは驚きだった。
 二人の距離は徐々に縮まり、やがておたがいの顔を認識できるまでに近づいた。深刻そうな表情で歩いてきたのは、ニキビの痕を残した高校生くらいの少女だった。傘をさしてはいたが、この豪雨だ。長い髪はぐっしょりと濡れ、額にぴったりと張りついていた。
 少女は子犬を抱いていた。僕の両手にならすっぽり収まってしまいそうな小さな柴犬だった。子犬は少女の胸に守られ、安心しきった表情で眠っている。
 少女は僕を見て、表情を堅くした。当然の反応だろう。僕はこのどしゃ降りの中、傘もささずに走っていたのだ。
 少女を怖がらせぬよう、スピードを緩めずに、そのまま彼女の脇を通り抜けた。少女の向かう方角には、僕の泊まっていたホテルがあるだけだ。それより先へ進んでも、山の奥深くへ入っていくだけで、なにもありはしない。
 一体、どこへ行くつもりなのだろう。
 疑問に感じたが、振り返ろうとは思わなかった。おたがいに振り返って目を合わせれば、ますます少女を驚かせてしまうことになる。
 雨はますます激しくなり、それに比例するかのように僕の身体も重くなっていった。雪の上を歩く感覚が、いつの間にか雲の上を歩く感覚に変わっている。前へ進んでいるという実感すらなかった。
 少女とすれ違って、五分ほど経った頃だ。
 突然、周囲が明るく輝き、僕の影が前方に大きく伸びた。振り返ると、どう見ても自殺行為としか思えない猛スピードで、一台の車が走ってくるところだった。車のライトは、ハイビームで僕を照らし続ける。一瞬、脱獄囚を見つけ出すためのサーチライトを連想した。
 突然のまぶしさに目がくらみ、平衡感覚を失った。
 道は細く、両側は雑木林に囲まれている。わずかでもハンドル操作を誤れば、林の中へ突っ込むであろうことは目に見えていた。林の向こう側はおそらく崖だ。崖から転落すれば間違いなく命はない。視界の悪い雨の夜に、この悪路をそんな猛スピードで走り抜けるとは、とても正気の沙汰と思えなかった。
 僕は路肩に寄ろうと右足を動かした。が、極度の疲労のためか、身体は思うように動いてくれない。
 目と鼻の先まで、ライトは迫っている。
 ――駄目だ!
 僕は歯を食いしばった。
 こんなところで倒れるわけにはいかなかった。死を恐れたのではない。まだなにひとつ決着していないというのに、このまま死んでしまうのが我慢ならなかっただけだ。
 稲妻に照らされ、暴走車の運転席が照らし出された。運転する人物の顔を見て、僕は大きく目をむいた。
「なぜ……?」
 膝ががくりと崩れ、切り株の上に手をつく。心がいくら焦っても、身体は思いどおりに動いてはくれなかった。
 まだ死ねない!  唇を噛んだ。
 僕はまだ死ぬわけにはいかないんだ……。
 次の瞬間、激しい衝撃が全身を襲った。赤や黄色の閃光が視神経の中を飛び交い、僕の前から世界が消滅した。
 薄れゆく意識の中で、僕は今日出会ったばかりの彼女――ホテルで出会った女性の名前を何度も叫び続けた。