M  Y  S  T  E  R  Y    L  E  A  G  U  E


絢爛たる奇想の歴史絵巻にして
堂々たる本格ミステリー
世にも稀なる巡り逢い……

山田正紀

『天正マクベス 修道士シャグスペアの華麗なる冒険』

四六判上製本
336頁
1995
円(税込)

信長の甥、織田信耀は来日中の劇作家シャグスペアらとともに琵琶湖横断の最中、
「颱風(テンペスト)」に巻き込まれ、名もなき小島に漂着し、
そこで彼らは人間消失と死の絡む不可解な事件に遭遇する。
その後も信耀とシャグスペアの周囲に度重なる事件は、
しかし、最大の政変、本能寺の変を迎えるための前奏曲でしかなかった……。


本文から少しだけ


 霧がちぎれ、たなびき、たなびいた……。
 視野をさえぎるものさえなければ、湖での十間は非常に近い。それこそ、ほんの指呼の間といっていいだろう。明瞭に視認することができる。
 霧のあわいに、手に取るように、井楼船がくっきり朝陽に映えている。上甲板に角材を校倉式に組みあげて高い井楼がそびえているのだ。
 井楼船は、その頂部に兵を配して、矢を放ち、銃を撃つためのものである。本来、井楼のなかの居住性など配慮されていない。ところが、他にあまり例のないことであるが、その船は井楼のなかが座敷になっているらしいのだ。
 格子窓があって、いまはその窓が引きあげられている。そこに朝陽が射し込んで井楼のなかを見通すことができた。
 信治の横顔がそこにあった。湖を見てでもいるのだろうか。その顔がわずかに斜めになっている。朝陽が射すなかにあかあかと浮かんでいた。
 それを見て、
「おお、信治様があそこにあらせられまするぞ」
 猿阿弥が無邪気に喜んだ。
 そのときのことだ。
 浜裾のほう、やや離れたところにある岩場にたたずんでいた愛姫が、ふいに声を張りあげて、
「お父上――」
 そう呼んだのである。 悲しいほどに澄んだ声だった。その声ははるばると風に乗って湖を渡った。
 それと同時に、琵琶がくるりと体を一回転させると、おうおう、と素っ頓狂な声を放って、
「わがお主が、ほれ、あのように空を翔んでおいでであるわい。速いこと、速いこと、まるで鷹のようではないか」
 空を見上げたその顔を一方から他方に動か した。
 琵琶は信治が翔んでいくのをその目で追ったのであろうか。その手を拍ち鳴らして喜んでいる。
「……」
 信耀もそれにつられて空に視線を放ったが、どうやら、すでに遅かったらしい。
 そこに信治の姿を見ることはかなわなかった。ただ、わずかに霧を透かして茫々と青空がひろがるを見るのみであった。
 そのときのことである。
 ふいに背後から、おい、小僧、と癇走った声が聞こえてくると、
「いますぐ、うぬの主が翔んでいった先にわれらを案内せい」
 見ればそこに五兵衛が立ちはだかっている。いつもは端正といっていいその顔がいまはすっかり血相が変わっていた。
 琵琶は喉の底で、ヘッ、と妙な声をかなでて、
「あ、あなた様はどちらで」
 これは面食らうのが当然で、考えてみれば、これまで琵琶はただの一度も五兵衛と顔をあわせていないのである。
「ええい、いまはそのように詮議だてをしているときではないわ。うぬの主のもとに案内せよとそう申しておるのだ――」
 五兵衛はますます癇走って、そのひたいにきりりと青筋をたてて、
「あの井楼船の窓にな、無惨に血がしぶくのを見た。この目でたしかに見た」
「ヘッ、血が……」
「そうよ。うぬの主の身になにやら異変が起きたのではないか。何もなかったのであればそれでよし。そのこと早急に確かめねばなるまい。いなやを申しておるときではないわ。了解したか」
「委細承知」
「さすれば、いざ案内せい!」
「ハ、ハハーッ」
 琵琶は子犬のようにくるくる舞って、すぐに駆け出していった。
 五兵衛もそのあとを従う。
 信耀にためらいはない。シャグスペア、猿阿弥の両名をうながし、すぐに五兵衛のあとを追う。
 大股で歩きながら首を傾げて、
「血がしぶいたとな。おれにはそのようなものは見えなかったが……」
 シャグスペアがそれを聞きつけて、はあい、と云って、
「あの殿は本当のことを仰せでございまするよ。それがしも確かに、あの窓に、血がしぶくのを見ました。血がしぶいて信治様がお斃れになられるのをしかとこの目で見ましてございます。そのことデウスの神に誓って嘘いつわりは申しませぬ」