M  Y  S  T  E  R  Y    L  E  A  G  U  E


いったい誰が何をしていたのか
精緻の変幻のあわいに
読者を落とし込む
気鋭の快作登場!

氷川 透

『追いし者 追われし者』

四六判上製本
250頁
1680円(税込)

ちょっと待って

「ぼく」は不安を抱えてあの人に会い、
「おれ」はストーカーとして標的を追い続け、
「わたし」は誰かにつけ狙われ――そして、
「あいつ」は死体になって転がる。


本文から少しだけ


 ――最近、つねに誰かに見られているような気がする。
 そんな思いにとらわれている。もちろん、気のせいだろう。そう思う。
 でも、誰かが誰かを見張るということがそれほど珍しいわけでもない、ということも実は知っている――言うまでもなく、実体験に基づいての話だ。
 でも、そんなことをいちいち考えていたら、生活に支障をきたすのはまちがいないだろう。職場でも、私生活でも。そう、勤めている印刷会社でも、気のおけない友人との語らいでも。
 だから懸命に、気にしないことにする。
 まさか、自分につきまとう人間がいるなんて。そんなこと、考えられない。
 その日も心地よくめざめて、出勤前のひとときを健康な食欲を満たすことに費やしていた。ガスレンジの上のフライパンに油を敷き、卵を落とす。食パンをトースターに入れて焼き時間を調整する。火にかけたやかんは、すでに沸騰寸前だ。すぐに、コーヒーも淹れられるだろう。
 そのとき、電話が鳴った。
 誰だろう、こんな時間に――当然すぎるくらいの疑念が胸に渦巻く。何しろ、時刻は午前七時二十分。キッチンの壁に掛けた時計を見たから確実だ。こんな時刻に電話がかかってくるなんて、かつてなかったこと。非常識だ、という判断はすぐさま悪い予感につながる。非常識を冒してまでかける必要のある電話なのではないか。たとえば、実家の両親のどちらかが病なり事故なりにに倒れ、瀕死だとか危篤だとか……
 そこまで考えて、大あわてで受話器を取る。「はい、もしもし?」
 受話器の向こうには、怖れていたような緊張感は皆無だった。
「……あ、もしもし。いや悪いねえ、こんな朝っぱらから」
 勤務先の所属長の声だと、すぐに判断できた。大平課長だ。さっそくモードを切り換えて、受話器に声を浴びせる。「――いいえ、とっくに起きてましたから。どうかしたんですか?」
「うん、それがさ――」所属長の声は何とも間延びしている。彼自身が、眠気から解放されてはいないのだろう。「かなり、困ったことになっちゃってねえ」
「困った……こと? 何でしょう、重大な事故でも起こりましたか?」
「いやね、その……バイトの女の子、いたろ。二人、な。それが、その……二人が、二人ともさ。いきなり、やめるって言い出したんだよね」
 言葉を失うしかない。いったい、それがどうしたというのだろうか。こんな朝早くから部下のプライヴェートを脅かす理由には、まったくつながらないではないか。
 ――いや、待てよ。
 つまらない詮索好きの虫がうずき出した。どうして二人が二人とも、いっせいにやめたがったりするのか。そのことで、なぜこの上司は非常識な時刻に部下に電話をかけてくるほど狼狽しているのか。
 押し黙っている上司に、思いきり言葉をぶつけてやることにした。「あの、大平課長……バイトが二人いっぺんにやめたから、何だっていうんですか? そりゃ、手が足りなくなるからみんなで残業でも何でもしてフォローしようっていうんなら聞きますよ。でもそんなの、出社してから話しあえばすむことでしょう?」
「い、いや……そのね」大平課長の声は、あきらかに狼狽の色を見せた。「それは、そのとおりなんだが……その、もうすこしデリケートな部分というものがあってさ」
 どうやら、話が見えてきた。
 それも、ひどくくだらない話が。