M  Y  S  T  E  R  Y    L  E  A  G  U  E


アクロバティックなロジックが
ミッシングリンクを痛打する
西澤本格、渾身の一撃!

西澤 保彦

『聯愁殺(れんしゅうさつ)

四六判上製本
296頁
1785円(税込


見ず知らずの若い男に殺されそうになりながらも、なんとか助かった梢絵。
だが、なぜ自分がこんな目にあったのかがまったくわからない。
警察の調べでは、男の手帳に残されたメモから、
彼が連続無差別殺人事件の犯人であ ることが濃厚であるという。
最後のターゲットの梢絵だけが助かったのだとも。
ところが男は事件後に失踪し、以来、行方が知れない。
事件から四年後、梢絵は、男が自分を襲った理由をはっきりさせるため、
〈恋謎会〉 に調査を依頼した。
各メンバーはそれぞれが持ち寄った証拠≠もとに
さまざまに推理を繰り広げるの だが……。
ロジックに淫した西澤ミステリの真骨頂!


本文から少しだけ


 男はそんな梢絵の首に何かを巻き付けてきた。梱包用のビニール紐だということも、もちろんこの時はまだ彼女は知らない。容赦なく力を込められ、梢絵の喉が鳴る。朦朧としていた意識が一瞬はっきりして、彼女は再び身体を動かそうと試みた。先刻に比べると指先などの神経が己れの意思に反応してくれているような気もするが、如何せん、微力に過ぎる。男の身体を押し退けるどころか、溺れる者が必死で水面を叩こうともがくかのように手を虚しく宙にさまよわせるだけで、相手に触れることすらなかなかできない。
 意識が白濁してきた。死ぬ……あたしはこのまま死ぬの?  死んでしまうの? 殺されてしまうの? まだ二十八の若さで。
 嫌。嫌だ。そんなの。嫌。
 梢絵はなけなしの力を振り絞り、無我夢中で手探りをした。何かをしようという明確な意図があったわけではない。ただ闇雲に生命に執着しただけだったのだが。ふと彼女の指が何かに触れた。梢絵本人は自覚していなかったが、それは男のジーンズの尻のポケットだった。びくびく痙攣しながら彼女の手がそこから、あるものを掻き出した。
 ばさっ。それが男のポケットからまろび出て床に落ちる音が異様に大きく響く。その一瞬、男の注意がそちらへ向き、彼女の首を絞める力が、ほんの少しだったが、たしかに緩んだ。
 床に落ちたのは小さな茶色の手帳だ。むろん、梢絵はこの時、そんなことを詮索している余裕もなかったし、後に彼女の運命を変えることになるその手帳の表紙に〈浴永高校〉と記されているのも見えなかった。
 どこにそんな力が残っていたのかと自分でも驚くほどの勢いで、梢絵は男を突き飛ばした。相手にダメージを与えるにはほど遠かったが、それでも男の下からすり抜けられる程度の隙間ができる。床を蹴った拍子に、まだ履いたままだったハイヒールが脱げ落ちた。
 首の皮膚にビニール紐を喰い込ませたまま、這いつくばって逃げた。無意識にベランダのほうへ向かって。いや、梢絵の主観としては脱兎の如く駈け出したつもりだったが、運動量のわりには無駄な動きが多く、実際にはほんの数センチしか移動していない。床でこすれたストッキングが爪先で裂け、彼女が身体をよじっているうちに太腿のあたりまで伝線する。
 ガラス戸までのたった数メートルの距離が遙か彼方に感じられた。その上、ベランダへ出るためには閉まっているカーテンを開け、施錠されているガラス戸のロックを外さなければならない。それらの手間まで含めると、自分には無限の時間が必要であるかのような錯覚に襲われ、梢絵は絶望的な気持ちとともに身が竦んだ。
 男がヘッドスライディングをするかのように彼女に飛びかかってきた。ロングコート越しに下半身を抱きかかえられ、引きずり戻される。その時、手に触れたものを梢絵は咄嗟に掴んだ。それはさきほど男が、彼女の首を絞めようとする際にそこへ置いたダンベルだったが、なぜ自分の部屋にこんなものがあるのかと梢絵は一瞬、混乱する。しかし、困惑している余裕はない。
 むずっと握りなおすや、ダンベルを相手に向かって投げつけた。ちょうどタイミング的に向こうから迫ってきていたため、梢絵の手を離れる前にダンベルは男の頭を直撃する。
「ぐむっ」
 くぐもった唸り声が上がる。それが梢絵が初めて聞くその男の声だった。
「誰か……」さっきまで声帯が錆びついていたのが嘘のように、彼女の口から絶叫が迸った。
「誰かきてえええっ。助けてええ。えええええっ」
 頭をかかえて倒れ込んでくる男の巨躯を必死で蹴って押し戻し、梢絵は再び床を這った。 (だ……誰か……だれか……たすけて……たすけてよう)途中で激しく咳き込んでしまって、しばし何もできない。(そ……そうだ……け……警察……けいさつ……ケイサツ)
 ぜえぜえ涙眼で喘ぎながら息を整え、ようやく電話機に飛びついた。受話器を耳に当てようとして初めて、梢絵は自分のこめかみが濡れていることに気がつく。 (な……何これ……なによこれ)粘つく指を見てみると、赤い。(ち……血? もしかして……あたしの血? さっき殴られた時の……)
 白い受話器がぬるぬると赤黒く染まっている光景がやけに鮮明に網膜に焼きつき、梢絵はふと気が遠くなった。このまま死ぬのかもしれない……自分が頭部に傷を負っているという認識が急激に彼女の体力を奪い、気力を萎えさせてゆく。
 男が立ち上がる気配がした。さっき梢絵に殴られたショックのせいか、なんとなくふらふらしているようだ。それがいまの梢絵には、ものすごく遠くで起こっている出来事であるかのように、ぼんやりとしか感じられない。 (来ないで……お願い)梢絵はただそう祈るしかなかった。(お願いだから……来ないで……こっちへは来ないで……どこか)
 意識がぼやけてくる。ぼやけること自体がさらに彼女の恐怖を煽る。 (だめよ……だめ)実家に置いてきた古い日記を母親が娘の思い出のために自費出版するという、妙にリアルなイメージが走馬灯のように脳裡を巡り始めて、梢絵は慌てた。(気を失ったら……終わり……ほんとうに終わりよ……その前に……電話を……警察に電話を)
 声にならない悲鳴で己れを叱咤し、泣きじゃくりながら梢絵は一一〇番をプッシュする。

           *

 暴漢に侵入された、という一礼比梢絵の通報を受けた警官たちが、彼女の住むワンルームマンション〈めぞんフォルテ〉一〇六号室へ到着したのは、一九九七年十一月六日、木曜日。午後八時二十分のことだった。正確にいえば、梢絵はことの経緯を細かく伝えたわけではない。彼女が電話で口にしたのは「男が……助けて……〈めぞんフォルテ〉……一〇六……早く……殺され」といった断片的な言葉だけで、その後、声が途切れてしまう。電話は繋がったままにもかかわらず、オペレーターがいくら問いかけてみても何の答えも返ってこなかった。受話器を握ったまま彼女が気絶したのだと警察が知るのは、後の梢絵本人の証言によってである。