VINTAGE MYSTERY SERIES


《オベリスト・シリーズ》幻の第一作
ついに邦訳!
衆人環視の死をめぐる推理合戦!

C・デイリー・キング
横山啓明=訳 森英俊=解説


『海のオベリスト』

四六判上製本
366頁
2520
円(税込)

優雅な船旅、満員のサロン
不意の停電とともに銃声が響き、一人の富豪がしたいとなった
4人の心理学者がそれぞれの推論から
犯人像に迫るのだが……



本文から少しだけ

 ちょうどそのとき、喫煙室の照明が暗くなっていった。誰もが天井を見あげた。照明は徐々に光を失っていく。まるでカーテンを引いていくようにあたりがぼんやりとし、どんどん暗さが増す。天井から闇が降りてくるようだ。人々は呆然として椅子に座っていた。予期せぬ事態にすべての動きが止まった。誰もがじっと待っている……ただ、スミスと可憐な娘だけは、悠然としているように見えた。彼女が飲み物を口に含んだことからそれがわかる。グラスに口をつけてから、平然として目の前のテーブルに置いた。父親も同じように落ち着き払ってゴブレットを手に取り、喉の渇きを癒すように一気に飲み干すと、やはりテーブルに戻した。
 すでにあたりにはかすかな光が漂うだけになっていた。人々の顔や姿が、かすんだ影となって闇に溶けていく。張り詰めた沈黙が部屋を領し、忙しく立ち働いていたバーテンダーでさえもその場に棒立ちになった。
 真っ暗になると、左舷の戸口のあたりから、はじめて聞く女の声が上がった。
「千ドル」しかし、その後に続く声はなく、部屋はふたたび静まり返った。
 あとになってポンズは、闇に包まれた数秒ほどのあいだに、なにが起こったのか思い出そうとした。はっきりしていることもある。真っ先に脳裏に浮かぶのが、スミスの落ち着き払った態度だ。真っ暗になると……椅子がひっくり返って床を打ち、それと同時に、小さなシューという音がどこからか聞こえてきた。スミスのテーブルのそばで人が倒れ、ガラスが割れる音が響き渡ったと思うや、閃光がひらめいて、リボルバーの銃声が轟いた。ほかに耳にしたことといえば、バーテンダーが背後を手探りして電話を探りあて、話しはじめたことだけだ。
 天井に埋めこまれた強力な非常灯が、いきなり点灯して目をくらませ、広い部屋を照らし出した。目の前に広がった光景が、なにもかも説明していた。
 ド・ブラストがテーブルの脇に立ち、煙の立ちのぼるリボルバーがその手から床に落ちるところだった。スミスのテーブルにいたふたりの若者は中腰だ。当のスミスはテーブルに突っ伏している。椅子は後ろにひっくり返り、体に押しつぶされたグラスからワインがこぼれて、床に滴りはじめていた。
 いきなり明るくなったために、誰もが呆気にとられてその場に凍りついていた。一瞬の間があり、女の悲鳴が響き渡る。
「撃たれた!」
 それが合図であったかのように、室内は一気に騒然となった。ほとんどの人が立ち上がった。大声で喚く者、落ち着けとなだめる者、しかし、いずれも怒鳴り声に近い。中央通路で椅子が一脚倒れて大きな音をたてた。ある者は犯行現場へ、ある者は他人を押しのけて出口へ向かおうとする。接客主任が、競売人のテーブルの上に這い上り、大声で人々を落ち着かせようとした。
「みなさん、危険はありません。落ち着いて」大騒ぎのなかでもこの声は部屋中に響いた。激しく手を振って、部下の接客係に出口へ向かうように指示を出す。
 パニックに陥る危険は回避された。はじめのうちは少数だったが、やがて誰もが冷静さを取り戻していった。驚き、うろたえ、説明を求める声が、悲鳴や叫び声に取って代わったが、室内はまだ騒がしい。しかし、それも徐々におさまった。卒倒した女性もいたようで、あちらこちらのテーブルで付き添いの男性が介抱している。部屋の前のほうから電話に向かってしゃべっているバーテンダーの声が聞こえてきた。
「――全班をです。船医はここにいます。急いでください」
 先ほど人々が出口へと押し寄せたときに、スミスのテーブルにいたふたりの若者が、ド・ブラストに飛びかかり、取り押さえていた。ド・ブラストは腑抜けたように立ちすくんでいるだけで、抵抗はしなかった。やがて膝ががくがくと震えはじめ、ふたりの若者に腕を取られていなければ、その場に崩れ落ちてしまったにちがいない。ド・ブラストを椅子に座らせ、逃げる心配がないとわかると、ふたりのうち若いほうが手を放し、スミスの傍らにいる娘のほうへ戻っていった。もうひとりはド・ブラストの肩と腕をしっかりとつかんで放さなかった。
 娘は頭をのけぞらせて椅子の背に体を預け、顔面蒼白だ。首の脇を赤いものが細く流れ落ち、真っ白な肩を伝ってイヴニング・ドレスの深く切れ込んだ胸元へと消えていた。若者は悲劇に見舞われた父と娘を呆然と見つめたまま、手をこまねいている。白髪の紳士が人々を押しのけて近づいてきて、その傍らに立った。
「わたしは医者だ」ひと言そう言ってから先を続けた。 「診てみよう」
 若者が後ろへさがって場所をあけると、医者は娘のほうに屈み込み、ハンカチを手にして首を流れる血を拭き取った。引っかき傷ほどの小さな切り傷がついていた。娘の萎えた腕を取り、手首に指を当てて脈をとる。それから満足したように頷くと、ふたたび若者に向き直った。
「気絶しているだけだ。こちらの紳士を診るから、手を貸してくれ」
 ひっくり返った椅子をもとに戻し、両脇からスミスの体をつかんでテーブルから持ち上げ、椅子に座らせた。シャツとベストがワインの鮮やかな赤に染まっていた。左胸のあたりはまだ白かったが、小さな黒い穴があいている。医者は手早くベストの下のシルクのシャツを切り裂いた。心臓のあたりの青白い素肌に、小さな留めネジほどの穴があき、縁が赤く染まっている。医者は即座にひざまずくとスミスの胸に耳を当て、閉じたまぶたを開け、片方ずつ目のなかをのぞき込んだ。それから立ち上がり、脇に控えている若者に向き直った。若者は途方に暮れた顔をしているが、にわかに覚ったようだ。
「だめだ。おそらく心臓をぶち抜かれたのだろう。致命傷だ」
 医者がふたりを調べているとき、ディナー・ジャケットが似合う控え目な感じの男が、人々をかき分けてまっすぐに近づいてきた。医者がスミスの死を告げたとき、その男はド・ブラストのテーブルにたどり着いた。上着の裾を後ろへ払い、小さなバッジを見せた。
「わたしは、この船の保安係です」ド・ブラストを取り押さえている若者に向かって言った。「その男を引き渡してください。あなたのお名前は? それから、このテーブルにいたみなさんも名前をお願いします」
「ぼくはヤンハズバンド。隣のテーブルでミスター・スミスと同席していました。この男が撃って、それで――」
 ド・ブラストはいきなり我に返ったようである。勢いよく立ち上がると、興奮して大声をあげた。
「冗談じゃない。殺してないぞ! あの男のほうなど見てもいなかった」片手で保安係の上着をつかんで引っぱり、もう片方の手をさっと振り上げて右舷の入り口を指差した。
「わ、わたし――やつぁ、わたしを殺そうとしたんだ。銃を持っていやがった。銃を引き抜いたんだ! わ、わたし――やつが――」
「落ち着いてください」保安係はさえぎった。「お話をうかがう時間はたっぷりとあります。あなたが銃を撃ち、凶器を床に捨てたのは、みんな見ているんです。さあ」そう言ってド・ブラストの隣にいる女性に顔を向けた。「そのリボルバーをわたしに。銃身を持つように」
 彼女は凶器の転がっている床に目を向けた。拾おうと手を伸ばしたが、途中で引っ込めてしまった。ヤンハズバンドが屈み込んで拾い上げ、銃身をつかんでグリップを先にして差し向けると、保安係は銃口のあたりをつかんで安全装置をかけ、ポケットのなかへ滑り込ませた。このとき、部屋の中央入り口で喧嘩がはじまった。ふたりの男が取っ組み合っている。
「戻ってくるまで、ここを動かないように」保安係はド・ブラストに厳しい調子で命じた。「あなたたちもです」そうつけ加えて、人ごみをかき分けていった。彼が中央入り口にたどり着く前に、甲板長に率いられた四人の船員が、ラウンジから続くメイン通路を走ってきて、ふたりを引き離していた。船員が取り押さえたのは、大柄の男のほうだけだ。取っ組み合っていたもうひとりの男は、取り押さえられた相手の体を素早く、しかし徹底的に探った。身体検査を終わらせると、ふたりの船員に男を委ね、どこかへ引き立てさせた。甲板長と残った船員は戸口に控えている。男は、近づいてくる仲間の保安係のほうへ歩み寄った。