VINTAGE MYSTERY SERIES


『赤い館の秘密』
ミルンが遺していた
幻の長編ミステリ初邦訳!

A・A・ミルン
武藤崇恵=訳 森英俊=解説


『四日間の不思議』

四六判上製本
330頁
2100
円(税込)

事故死した叔母の死体に妙な細工をしてしまったために
殺人犯として追われるジェニー。
ところが捜査はとんでもない方向へ迷走し
誰も彼も事件に巻き込まれ……
「黄金期」に、いわば出るべきして出た稚気あふれる逸品。


本文から少しだけ

 つい先頃の六月の気持ちのいい朝のこと、ジェニー・ウィンデルはオーバーン・ロッジの鍵を開けて、鼻歌まじりにのんびりと二階の居間へと上がった。そして開いていたドアの脇のラグにジェイン叔母さんの死体を見つけて驚いた。確かにジェイン叔母さんはまっとうな最期を迎えないだろうと何年もいわれ続けていた。黒い髪を男の子のように短く刈り込み、長い真っ赤なシガレット・ホルダーでタバコを吸い、シットウェル家ともつきあいがあった。さらに、日曜日には舞台に立っていたが、その芝居ときたら、芝居自体がくだらないか、登場人物が考えられないことばかりしているかのどちらかだった。そして噂では――いや、当然そんなものはただのデマにちがいない。なにしろ、ジェインの父親は長年インドに駐在していて、ウィンデル家はこれまで良家の評判を落としたことなどないのだから。
 よく考えてみれば、ジェイン叔母さんがこんな急死を遂げたのも不思議はないし、ジェニーが二階の居間で死体を発見したことだって特筆すべきことではない。ジェニーは読書が趣味だったので、ひとが二階の居間で死体を発見するなどよくあることだと知っていた。つい昨日の晩も、法定弁護士のマイケル・アロウェイが、自宅の暖炉の前のラグで身なりのいい女性の死体を発見したではないか。しかも、死体の脇には「A K 17 L P K 29 金曜」と書かれたメモが残っていた。それがなにを意味するのかは、今夜その先を読むまでジェニーにはわからない。今朝は店のショーウィンドウからショーウィンドウへ、売場から売場へとひらひら見てまわりながら、自分もそんなわくわくするような経験をしてみたいと考え続けていたのだ。それが現実に、それもアラブの長老の鞍頭馬の背をまたぐように弓形に湾曲した鞍の前縁の部分の上でではなく、よく知っているブロンプトン・ロードであっさりと起こってしまったのだ。死体……ハンサムな若い探偵……あのベイリー英国の推理小説家の小説のような……証人席に立つジェニー・ウィンデルの劇的な証言。(「おはようございます! いえ、ちょっとぶらぶらしていただけなんです。ご静聴ありがとうございました!」)
 しかしなによりも一番驚いたのは、ジェイン叔母さんがこのオーバーン・ロッジにいることだった。もう何年も顔を見せることすらなかったのに――ジェニーの記憶では、最後に叔母さんに会ってから八年近くになるはずだ。キャロライン伯母さん(善人そのもの)にとっては、ジェインを遠ざけておくことができたというだけでこの八年は安穏な歳月だった。今現在のジェインがどうあれ、ジェニーにいい影響を与えないことだけは確かだし、ろくでもないことばかり吹き込むに決まっている。ジェインが八年以上もオーバーン・ロッジを離れていたことは、キャロライン伯母さんにとってはともかくさいわいだった。
 そしてとうとうジェインがオーバーン・ロッジに帰ってきた……八年ぶりにジェニーと会い……確かにいい影響は与えなかったし、本当にろくでもないことをジェニーの頭に吹き込んだ。
「えっ?」それから「あららら!」とジェニーは声をあげ、それから驚きを口にした。「どうしてジェイン叔母さんが?」
 八年ぶりとはいえ、見間違いではないと自信があった。艶やかな黒髪、派手派手しいジプシー風イヤリング、中国人のような黒い瞳の上の極端に細くととのえられた眉、すねたように尖っている真っ赤な唇。かの有名なシガレット・ホルダーは折れて床に転がっている。日曜紙の社交欄を読んでいる者ならおなじみのものばかりで、そうした記事を愛読している女性なら「どうしてジェイン・ラトゥールが!」と一目でわかるはずだ。だがオーバーン・ロッジの居間に日曜紙が入り込んだことなど一度としてなかった。〈オブザーヴァー〉紙のガーヴィン氏は愛国の士でもあり、実際に国のためにすべてをなげうって尽くしていたから居間にもお目見えしたが、新聞自体はまた別の問題だった。国を代表するような新聞以外は出入り禁止なのだ。だから日曜紙のたぐいはまっすぐキッチン行きだった……そしてコックが「また叔母さんのことが書いてありますよ、ミス・ジェニー。切り取ってさしあげましょう」といってくれるのを待たなければいけなかった。そうしてコックからもらった小さな切り抜きや、美容院で金髪をととのえてもらうあいだに読む写真雑誌、そして八年前の記憶のおかげで、ジェニーは姪にしては珍しいほどの鮮明さでジェイン叔母さんの顔を思い浮かべることができたのだ。
 ジェニーはある写真に心惹かれながらも嫌悪感を感じたことがあった。そんな気持ちになったのは生まれてこのかた最初で最後だった。その写真は「純白のレディ」と題してあったが、それがジェイン叔母さんの呼び名だとは誰も思わないだろう。ジェイン叔母さんといえば赤と黒のレディなのだから。もし叔母さんが有名な女優ならば、関心がないふうを装って「そう、叔母なの」といって、うらやましそうな「本当?」という返事を待っていればいい。反対にちがう意味で名高い場合は、早口で「まあ、一応親戚なんだけど――」と語尾を濁し、話題が変わるのをじっと待っていればいい。(叔母のことを考えたときに)なにが腹立たしいといって、ジェイン叔母さんがなにをしたのか正確にはまったくわからないことだった。キャロライン伯母さんが一度だけジェイン叔母さんのしなかったことを説明してくれたことがあった。ただ子供心にもその言葉の裏になにかが隠されていることはわかった。フランスの伯爵と結婚したはずが、夫が伯爵ではないばかりか正式には結婚すらしていないことが発覚し、結局その男について確かなことは(まあ、これだけは真実だった)フランス人だということだけだったという経験をしたにしろ、そんな馬鹿な失敗をしたという理由だけで新聞に載るわけはないだろう。そう思わない、キャロライン伯母さん?
「まあ、確かにそれがすべてではありませんね」伯母は答えた。
「じゃあ、なにがあったの?」
「妹のことを話すのはあまり気が進まないのですよ。しかも十六歳の女の子が相手ではなおさらね。わたくしはね、ジェニー。時代遅れかもしれませんが、あえて古めかしい言葉でいえば、あなたにレディになって欲しいと思っています。だから話題を変えましょう」
「ジェイン叔母さんはレディにはならなかったの?」
「ジェイン叔母さんは」キャロラインは誇らしげに答えた。「なにをしようとも、いつだってレディですとも。なにしろ、ウィンデル家の一員なのですから」
 それを聞いたジェニーは、自分もウィンデル家の一員なのだから、だったらなにをしようとレディなのではないかと考えた。それがなにかは知らないが、ジェイン叔母さんがしたのと同じことをすべてしたところでレディのはずなんだから。それならどうして―― 「ベルを鳴らしてちょうだいな。お茶にしましょう。あら、ストッキングが伝線しているのではなくて? 見せてごらんなさい。まあ、やっぱり。さあ、すぐに履き替えていらっしゃい。つくろうのはあとでいいでしょう」
 そこでジェニーは親友のナンシーと二人で、(チョコレートの箱をはさんで)ジェイン叔母さんは実際になにをしでかしたのかという結論を出すことにした。ジェニーの結論は、叔母さんはすさまじい量の雪を食べたというものだった。ヨーロッパの王族たちの前で一糸まとわぬ姿でハープを演奏したというのがナンシーの結論だった。そして二人はそれ以外の可能性についても熱心に話し合った。
 そしてその二年後、ジェイン叔母さんはオーバーン・ロッジの居間に倒れていて、ジェニーはいまだに叔母がなにをしでかしたのか知らないでいた。
 ジェニーの頭に最初に浮かんだのは「すごい! 大興奮!」だった――それから遅ればせながら自責の念に駆られて、「お気の毒なジェイン叔母さん!」と思い直した――それからふと現実に戻って考えた、もしあの噂がすべて本当だったとしたら、ジェイン叔母さんはこれ以上大量の雪を食べることなく、そしてさらに大勢の王族たちやもしかしたらどこかの国の大統領を前にして裸でハープを弾くこともなく、死んでしまったことになる。だが、そうだとしても別にたいした問題ではないような気がした。いくら雪でもそんなにたくさん食べたのでは気持ち悪くなるだろうし、裸での演奏にいたっては、大統領たちが新聞の写真で見るような格好をしているとしたら、かなり決まりの悪い想いをするにちがいない。さすがのジェイン叔母さんも、もうそんな真似をしなくてすんでほっとしていることだろう。そこでまたさきほどの高揚した気分に逆戻りして、ヨーロッパの巨大犯罪組織のボスが暗号のメッセージを残していないかと床を見渡した。暗号が残っていれば……
 だが、そんな暗号など影も形もなかった。さらにがっかりしたことに(ふつうは幸運だと思うだろうが)、ここでなんらかの犯罪が起こった証拠もなにひとつなかった。ハイヒールを履いたジェイン叔母さんは寄せ木の床で足を滑らせて転び、古い高価な真鍮のドアストップにしたたか頭をぶつけたらしい。誰のせいでもないのだ。  つぎに、ドアストップを拾い上げて、あるべき場所、グランドピアノの上に戻さなくてはと考えた。昔キャロライン伯母さんがホイットスタブルで見つけてきたそのドアストップは、コンウェイ城の断面をかたどったものだった。特に美しいというわけでもないが、確かにコンウェイ城の断面そっくりで、どうやら実用品ではなくて装飾用のようだった。床に置いてあっては寝そべらないと鑑賞できないので、見やすいようにとピアノの上に置かれることになったのだ。ジェニーはドアストップを拾い上げたが、小さなしみがついていることに気づき、そのまま将軍だった父とロバーツ元帥(父の上官だったことがある)の写真にはさまれた定位置には置かずに、自分の小さなハンカチでしみをきれいにぬぐい取った。そしてハンカチについた小さなしみを見て顔をしかめたが、とりあえずかたわらの椅子にひょいと放り投げておいて、つぎになにをすべきかを考えた。
 だが、あれこれ考えている時間はなかった。一階のドアを開ける音がし、続いて階段を上る足音が聞こえてきた。そのときジェニー・ウィンデルは恐ろしいことに気づき、からだじゅうがかっと熱くなったかと思うと、つぎの瞬間さっと血の気が引いて寒気までしてきた。心臓が勢いよく喉まで跳ね上がって、また胃のところまで急降下したような気分だった。自分はここにいる権利などまったくないことを思い出したのだ――半年前にオーバーン・ロッジを引き払っていたことを。